弘益大学校で絵画を専攻した後、TBC放送局のデザイナーとして、ドラマやショーステージ等のデザインを手がけました。『歌謡TOP 10』の舞台美術も彼の作品です。ステージデザインの仕事もやりがいのあるものでしたが、画家として絵を描く事が自分の天職ではないかという気がして、3〜4年後、本格的に作品制作に入りました。大学時代の担当教授が彼に声を掛け、大学の助手、講師として生活をしながら作家活動をすることになりました。以後33歳という若さで江陵大学(現・江陵原州大学)の教授になりました。
教育に多くの時間を費やすため、自分の創作活動を行うのは大変したが、金漢國は絶えず奮闘して、ユンギャラリー、ス画廊、ハァサラン、ドンスンアートセンターギャラリー2000などで個展を開いて活発な活動を続けてきました。
IMFで韓国経済が悪くなった時期の1997〜1998年には、家族と一緒にパリに交換教授として行くことになりました。パリでの生活は彼にとって、新しい視点を獲得する機会になりました。特に写真とコンピュータ、プリンティングを融合させて、抽象表現と写真表現の境界を行き来し、自身の表現の壁を破ることができたことは、最も大きな変化でした。当時彼は、ヨーロッパや東南アジアなど多くの国を訪れて、自然と人々の様子を写真で記録して 脳裏に刻み付けていきました。そのような旅を通じて、画家として巨視的、黙示的な視点を持つようになりました。それで誕生した作品が「PROJECTION - TRACE」「流動形成FLUID」シリーズなどです。また、これらのインスピレーションは、その後2008年から、香港、シカゴ、ニューヨーク、ジュネーブなど海外のアートフェアで活発な活動をさせる原動力にもなりました。特にスイスのスコープ・バーゼル(Scope Basel)展示は、イギリスの雑誌「Identity」に世界中の有名作家と一緒にアンシド(仰視図)シリーズが紹介されました。
運命は非常に小さな偶然で始まる。
金漢國が交換教授生活を終えて、韓国に帰国した後、しばらくして、世界的はサーズが大流行しました。ほとんどの公共機関で、熱感知カメラが休む事なく動いていて、空港も例外ではありませんでした。
金漢國は、モニターにより示された赤い形をした人々の姿から目を離すことができなかったと言います。レンズを通して映し出された赤い人間の姿が新鮮な形で近づいてきたのでした。この時から、彼は自分の独自の視点を持つようになりました。第三の目を通して、繊細な人間の世界、現状の本質の探求が始まったのでした。
絵画的覚醒の媒体として熱画像を利用してから、再び運命的偶然と向き合うことになりました。新聞の小さなコラムから新たなインスピレーションを得たもので、内容は、すなわち“人間の文明は古代から鳥瞰図(鳥が世界を見下ろす目)を基に発達して、遠くから見る森と、森の中でみる森が違うように、精密な所までは逃している。しかし、現代では、より精細な仰視的(虫が世界を眺める目)な思考が必要である”ということだったのです。
“仰視的な視線で世界を眺める...”これが金漢國がずっと考えてきた新しい視線と言う事に気づきました。この時から熱画像と昆虫の目をモチーフにした仰視図シリーズが発表されるようになりました。数え切れないほど多くの目を持っている昆虫の目を通って、作家として世界の多様性と深みのある実体を、本質的で、客観的ではなく、主観を一つ一つ表わしたもので、多分それは世界を浄化しようとする彼だけの言葉であります。
金漢國は自分自身だけの第三の目を持つようになると考えています。
彼の作品は常識から外れ、現代文明が逃した、違う事実を絵画の可能性を通して具現化していると言えます。 |